「4・いつも一緒」の続き(時系列的には前ですが)です。















ある日の帰り道、あの人に連れられて俺はここへ来た。


『お前に見せたいものがあるんだ。来るだろ?』


いつもと何ら変わりのない、日常の一場面だった。
──ただ、あの人の笑顔が異様なほどに優しかったことを除けば。



向かった先は、小さな建物。
通された部屋は、あまりにも殺風景だった。
豪奢な物を好むこの人が用意したとは到底考えられない、そのがらんとした空間に、俺は首を傾げた。

『この…部屋、は?』
そう問いながら振り返って見た、あの時のあの人の顔は、きっと一生忘れない。


『今日からここがお前の家だ』

とてもとても穏やかな目で、とてもとても優しく、その人は言ったのだ。



その日から、俺の首には頑丈な鎖が掛けられている。
繋がれた錠前が鈍く光る。それに合う鍵は、勿論あの人の手の中に。
いくら馬鹿力と言われる俺でも、さすがにこんなに太い鎖は千切れない。
もっとも、ちぎる気などは端からないのだが。

鎖と言っても、それは狭いワンルームの中を動くには不自由しない長さだった。
ただし、ドアと窓には届かない。
何も無いこの部屋には、外と通ずる手段ひとつ見つけられない。
だが、別段それを恐れたことはなかった。
こんな絶妙な長さを割り出すなんて、やっぱりこの人は凄いなあ、などと思うばかりだ。



『樺地』
『お前は一生、ここで暮らせ』
『必要な物は全て揃えてやる。欲しい物があれば言え』


何故、とか、訊ねたいことはたくさんあった。
けれど、それはこの人の言うことだから、きっと何か意図があって。
それを教えてくれないのなら、それは俺が知るべきことではないのだ。──少なくとも、今は。


その部屋での生活は、正直に言うならば少々退屈なものであった。
あの人はきちんと学校へ通っているのか、昼間は出て行ってしまう。
一人で出来ることと言えば、読書かボトルシップの制作、それと料理くらいしかない。
楽しいことは楽しいのだが、何と言うか、密度が薄く感じられるのだ。
勿論それを分かって、あの人は新しい本や、初めて見るような珍しい調理器具などを次々と持って来てくれるのだが。


あの人は優しかった。
俺に何かさせるわけでも、ましてや暴力を振るうわけでもなく、ただいつものように──いつもより優しいくらいに、俺の傍に居た。
今までと何ら変わりのない、ゆったりとした時間だった。
その流れに身を委ねるあの人はとても安心したような、安らいだ顔だった。
だから、俺は何も訊けなかった。
ただ、あの人の顔は安心しているように見えても、何故だか幸せそうには見えなくて、それだけがいつも気掛かりだった。


しかし、ただ一度だけ、あの人は俺に手を上げた。
『妹の様子が知りたいから、外に出たい』
と、伝えた時だ。
頬への衝撃は然程強いものではなく、座っていた身体のバランスが少し崩れ、床に手をついた程度だった。
だが、その時見上げたあの人の表情が、何より俺の胸を痛めた。


『どうして、そんな』
『なんでだ』
『こんなに…何だって、揃えてやるのに』

そう紡ぐその唇はわなわなと震え、視線は落ち着き無く部屋のあちこちを移動する。
ただでさえ白い肌がますます青白く、色が抜けていくようだった。


『なんで』

声量にして僅かの呟きだったが、痛いほど耳に刺さる。
目の前のその人は、金茶の髪を自ら掻き乱し、やがてぺたりと床に座り込んでしまった。
それはいつか、どこかで見た光景だった。

思いを巡らせ、辿り着いた記憶。


──十年前の、この人だ。

同じように怒って、泣いて。
あの時は何と言われたのだったか。
夕暮れ、闇が迫る時間に。この人のお家で。

何と言われたのだったか。



『鍵は、俺が持ってる』
『そんなに出たきゃ、俺を殴るなり何なりして奪い取ればいい』
涙に滲んだ声で、ぽつりと、しかし、瞳は強くこちらを睨んでいた。
『…そんな度胸もねぇくせに、俺に逆らうような真似をするな』
そう吐き捨て、あの人は俺の肩へ顔を埋めた。
『…すみま、せん』
肩のその人へ声を掛けるが、返事は無く。
しんと静まった空間で、ただ床に転がったボトルシップの部品を見つめていると、やがて小さな寝息が聞こえてきた。

──そっと、鍵を抜き取ることだって出来たけれど。


でも俺は、跡部さんを信じているから。

間違わないと信じているから。

そして、たとえ間違ったとしても。
それに自分で気付ける人だと、信じているから。



肩に乗った寝顔は、どこかあどけなく。

──十年前に『帰るな』と泣きながら俺の服の裾を引いた、小さな子供と同じ顔をしていた。

















樺地も十分病んでいる。

2009.4.26