夜、部屋で寛いでいた俺の携帯が音を立てる。
開いてみれば画面に映る文字はやはりあの人の名だった。

『樺地』
通話ボタンを押すと同時に聞き慣れた声が耳に届く。
けれど、その声音は普段より幾分弱々しい。
こういうことは今まで何度かあったから 何も訊ねず返事を返す。
「今から、行きます」
『…ああ』
僅かに躊躇いながらもプツリと通話を切り、急いでリビングへ向かう。
そこで雑誌を読んでいた母さんに一声掛けて家を出た。
「跡部さん家に行ってくる」と。
――大分夜も遅く、外は真っ暗だ。
中学生の出歩く時間ではないが、この体格だし 大した距離ではないから特に危ないということもないだろう。
母さんの返事もいつものように「気を付けてね」という軽いものだった。

早く行かなくては。
そう思うと自然と足早になり、いつのまにか走り出していた。


跡部さんの家に着き、チャイムを押すとインターホンから女の人の声が聞こえた。
『樺地様ですか?』
「はい」
『畏まりました、今執事が門を開けますのでお待ち下さい』
メイドさんだろうか、すぐに俺の名が出てきたということは すでに跡部さんから指示があったのだろう。
この時間だから他にお客が来るとも思えないし。
それにしてもやっぱり様付けされるのは落ち着かないなと思っていると
執事さんが出てきて門を開け、中へと招き入れてくれた。
小さい頃からここにはよく来ているから跡部さんの部屋の場所も分かっているし、そのことはお手伝いさん達も知っている。
だから執事さんは屋敷のドアをくぐってすぐに「では」と頭を下げて奥の部屋へと入っていってしまった。

眩暈のするような煌びやかな空間の中、一人階段を上り目的の部屋を目指す。
早く早く。
煌びやかな光が消えてしまわないうちに。


ドアの前に立ち、数回ノックすると中から「入れ」と声がする。
ノブに手を掛け中に入ると 一段明かりを落としているのか少し暗く、ベッドサイドの小さなランプが優しく光っていた。
部屋の主は上半身を起こし、俺を見ながらベッドの端を軽く叩く。ここに座れという意味だろう。
そこに腰掛け 跡部さんの方へ顔を向けるとその人は疲れたような表情で俯いていた。

跡部さんは溜め息を吐き顔を上げ、俺に軽く手招きする。
それに従い上半身を傾けて身体を近付けると、鍛えているはずなのに細い 長くて綺麗な腕が延びてきて俺の背中にまわった。
俺も跡部さんの頭と背中に手を乗せるようにして抱き締める。
俺の胸元に頭をつけ項垂れる跡部さんは、またひとつ溜め息をついてからぽつりぽつりと
普段は絶対に口にしないような泣き言や愚痴を零した。


本当は。

いつも強気で皆に頼られているけれど、本当はきっと誰とも違わないんだろう。
本当はプレッシャーに押し潰されそうになることも、苦しいことも辛いこともたくさんあるんだろう。
そういうものが溜まって溢れそうになってしまった時、お前が傍に居ると落ち着くんだと跡部さんは言った。
こんな姿を見せられるのはお前だけだ、とも。

それはとても嬉しいことだ。
でも同時にとても恐いことでもある。
俺の行動ひとつで、この人のなにかが変わってしまうかもしれないのだから。
そんな、俺みたいな人間の言葉や行動で信念を曲げられるような人じゃないとは思っている。
けれど本当の弱さや脆さも誰より知っているから、時々不安になる。

――俺なんかで良いのかと。
もっともっと相応しい人が居るはずなのに。

前に、そう言ったら
「俺の好きな奴を侮蔑するなんざ、いくらお前でも許さねぇぜ」
と笑って返されたことを思い出す。


一通り吐き出したのか、跡部さんは黙り 暫らくそのまま俺に身を預けていた。
「…寝る、から、」
「ウス」
そう呟いた跡部さんは俺から身を離しベッドに横になる。
その手を取り軽く握ると、跡部さんは少し微笑んで目を閉じた。
睫が白い肌に下りて その長さが強調される。

こうやって この人が夜に俺を呼び出し、泣き言を洩らすことはたまにある。
でも それは本当にたまに、数か月に一回あるかないかという程度だ。
そしていくら弱気なことを口にしても 決して泣くことはない。
本当は、出来ることなら溜まる暇もないくらいこまめにこの人の苦しみを取り除いてあげたいのに。

どうかもっと頼ってください。
あなたの好きな人が、あなたに相応しい立派な人になれるように。

そう願いながら、寝息を立てるその人の頭を撫でて 小さなランプの明かりを消した。


















2006.11.25